唯一の両親と絶縁する。と思う。

感謝していることはもちろんある。金銭面が多いかな。うちは公務員家庭だから年収は多かったから。悪くいえば「金が解決してくれる」。

でも心まで救ってくれたことはない。学校をやめた時も、鬱病になった時も、摂食障害を患った時も、親友を亡くして途方に暮れていた時も、一切庇ってくれなかったからだ。それどころか、毎日のようにむせび泣き、キッと私を睨み、ただ暴力を振るっては「どうしてこんな子になっちゃったの」と押し潰されるような力で私の腕を掴み叫ばれた。

両親はずっと私を大事にしてくれていた。私には到底理解のできない愛情で囲って育んでくれた。欲しいものなんか買ってくれなかった。ゲームもテレビも門限も制限された。暇だよ、と言うとわがまま言わないの、と面倒がられた。点数が悪いと機嫌を損ねるので、両親の良い顔が見たくて、それで安心したくて勉強した。小中高はやればそのまんま成績に映えるのでトップだった、「頭の良い愛娘」がそこにはいたんだと思う。

でも気付いてしまった。もう親の良い顔のために頑張る必要なんてないことに。自分のために生きなくてはいけないのに、私はこの歳になるまで親に尽くしてしまっていたのだ。とんだ阿呆だ。無駄にした。途端に憎しみが芽生え、背後から蹴り上げた。蛙の子は蛙だ。でもそんなことをしたって、いくら「返してくれ」とわめいたって、私の両親はいつだって怪物で、私の言葉なんか空気のようにすり抜けてしまう。そう気がついたらなんだか虚しくなった。部屋ですすり泣いてそのまま寝てしまった。

大人になれば昔はお互い成長して、変わると思っていた。間抜けだった。私よりうんと早くに大人になってしまった親の性格はいつまでも変わらないのだから。そして大人になった私もまた、憎しみは収まるのではなく伸びていくばかりだった。

来月実家を出る。少し早まるかもしれない。

もうここに私の居場所はない。一生帰ってくるつもりもない。老後の面倒を見る余裕も今はない。

我慢するのはもうやめた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

点線

点は線にはならない。その逆も然り。

母親の腹から生まれた人間なのに、こんなに苦しい思いがあっていいんだろうか。相談は笑い話に変えてしまう。本当は日夜泣いているのに。

中学生以前までは末っ子長女として愛されていたと思う。厳しい父親には絶対公務員になることを強いられていたし、勉強面で理解できないことがあると鉛筆でデコピンをされた。マナーや親に対しての口の利き方が悪いとリビングから締め出された。けど、その生活は当時の私にとっては当たり前で、みんなもそうやって育てられてるもんだと思っていたから、心の強さを鍛えるための教育と思って受けていた。反面では父親は私に似合う服や高いフレンチのご飯をたらふく与えてくれた。家族旅行は人生で2回しか経験がなかったけれど、私が生まれたときは香川にいたけれど、小学校低学年までは毎週末のように出張へ行く背中ばかりを見ていたけれど、やっぱり父親にとっての埋め合わせが飯や服であって、それはそれで愛されていたんだと思う。

日曜日は教会学校へ行った。大好きなアニメは観られないことが多かった。リモコンの取り合いで喧嘩をした。土日の夜は祖父母が来て、一家団欒を楽しんだ。大人たちが大河ドラマに見入る隙に、風呂に入って見られなかったバラエティの続きを二階で一人観ていた。

中学生になって、引きこもりになった。母親は毎日泣いていて、気がついたらヒステリックになり会話をするたびに手が出るようになった。

大喧嘩をして手首を捻った。泣き叫ぶ母親に死ね、と吐き捨てた。でも、本当は私のせいで家庭が壊れていくなら死んだ方がいいんだろうと思って、夏の夜に裸足で砂利を踏みながら家の前の車道に出た。追いかけてきた父親に抱かれて未遂に終わった。私の意志はとても弱かった。

摂食障害になったら、私はもっと孤独になった。ちやほやされるのが嬉しくて外に出歩くのは好きだった。化粧っ気のない栄養失調でくまの浮き出た顔だけが憎かったけど、後ろ姿はフランス人形みたいに可憐だった。気持ち悪い、という言葉は嫉妬として喜んだ。これによって私は気違いになった。ストイックな性格が摂食障害で憧れのスタイルを与えてくれた。過食時のバイキング通いはその後半年くらいやめられなかったと思う。生理なんか来なくなった。両親はずっと泣いていた。

死に物狂いで一年間勉強して、底辺高校に入った。高一の時は週の半分はぼっち飯、ブスの私に友達なんかいなかった。

高二の春に出会った親友はその三年後に自殺した。私の憧れで、太陽みたいな人だった。いつも「あなたはかわいいねえ、頑張り屋だねえ」と励ましてくれた。高三の秋に喧嘩をして、卒業式の数週間前まで口を聞かなかった。でも、ある時急に何も無かったかのように話しかけてくれて、心晴れやかに卒業した。謝罪も何もせず死なせてしまった、守りきれなかった私の一生の後悔はそこにある。

専門学校一年生の頃は少し太っていて、両親とも仲が良かったと思う。もちろん我慢は多少していた。でも大人になるんだという強い気持ちで乗り越えた。はずだった。

二年生にあがり、平日学校土日バイトの生活で余裕がなくなった。あるとき上記の訃報を受けてげっそりと痩せた。飲まず食わずで泣いていたからだ。授業が何も頭に入らなくなっていたが、試験の時だけは本腰を入れ勉強し成績をあげていった。こんな時にも私のプライドは高いんだなと思った。

料理の道を選ぶために学校をやめる、と話したのはその直後だった気がする。その瞬間、家に居場所がなくなった。出てけ、と母親の怒号が響く家にはいられなくなり、何度も朝帰りをしてしまった。今思えばこの時点で家を出るべきだったと思う。ここなら、と決めた職場では除け者扱いをされ、辞めざるを得ない状況になった。

やりたいことをやる人生でしか私は生きられないのに、やりたくないことをやって真面目に生きることを強いる両親にはもう疲れてしまった。居場所なんてどこにもないから深夜のタクシー乗り場でビールを飲むような人間になってしまった。メンヘラとは言われるけれど私は至ってまともだと思う。太腿にできた痣は蹴られたときのもので、見る度に悲しくなってしまう。虐待親、までは言わない だってもう既に親だと思ってないから。近い将来で絶縁するんだろう。もう顔どころか同じ空気すらも吸いたくない空で。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今あの顔がもう一度見られたら私はどんなふうにして声をかけるだろうか 元気だった?わたしは元気だよ、でもずっと会いたかった、君を忘れた日は一日もなかった、いやそうでもなかったかも、時々君がいなくても生きていける自分に酔ったりしたけどそれでも恋しかった。それから、あの日のことをずっと謝りたかった。ごめん、今更すぎるけど、それからありがとう。あの日また口を聞いてくれたのは私と最後に話したかったからだったんだねって、それから二人そろって未成年飲酒して非合法な遊びをしたね。いなくなる前に日本中を一人で旅して会いたい人に会って手紙を書いてすっぽりと抜け落ちるように消えてった君の話がもっと聞きたい。もっと声が聞きたいんだ。

 

 

 

 

誰かの常識

誰かにとっての常識は私にとっての非常識

だから私はいつまでも無知だ。

 

正直なところ、私は地位と名誉の高い公務員家庭に生まれたから、甘やかされて育ってきた部分もあれば、人としての品性を手厳しく教わりながら育てられた部分もある。

だから自分勝手なお嬢様で常識知らずなところもあるし、他人に流されにくく気高いプライドを持った性格にもなった。

 

きっと家族間の仲の悪さはワースト1。

今話題になっている某大学は兄の母校。

そんな兄とは口を聞かなくなって七年目を迎えようとしている。

 

賢くなりたいと願っていたわけではなかったけれど、両親に誘導されるがまま、背けば見放されると思っていたから、死に物狂いで勉強して無い脳味噌をこじ開けて詰め込んで、底辺から一番を勝ち取って優秀な成績を収めた学生時代。

見た目に拘るようになり誰よりも綺麗でいたくて半年で20kg落とした摂食障害にも見舞われた。

 

けど私は完璧ではなかった。それは私が燃え尽き症候群 だから。

嵌ればやり込むけれど落ちるときは一瞬。

私は両親に認められたかった。

肋骨が折れるくらいギャフンと言わせたかった。

周りに好かれたくてやってきた。

自分のやりたいことではなくていいから、それなりの人間になって恥をかかずに生きていたかった。

そうするとどうなるのか。

自分自身がみえなくなった。

 

 

なんのために生まれたのかはきっと死ぬまでわからないかもしれないけど生きてるうちはやりたいことをして生きていくのが唯一の解決策だと思い今の生活をしている。自分の世界は自分で救う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ミミズが死ぬ季節

ミミズが干からびて死ぬ季節になった。

一発目から闇の深さが全開、だって今、こんなに良い天気のはずなのに、落ち込んでいて途方に暮れているのだから。やり場の無さすぎる悲しみはトイレに流す訳にもいかずに、勢い余ってブログ開設。後々後悔するかも。しないかも。

 

なんでこんなに気落ちしているのか、わからないけど無音の室内でストローの音だけ響かせてたら条件反射的に泣きそうになった。飲み物っていつの間にかなくなっちゃうことが多いからいやだよね、もういいと言う限り無限に発生してほしい。そしてやがて血糖値が上がり人は死ぬ。

 

三連休なんて、世間には贅沢でも自分には窮屈な休暇をとってしまったから、きっとこんなに虚しいのかもしれない。起きてから夜寝るまで胸のキューッとした締め付けと動悸が収まらなくて不安になる。明日からはまた仕事。その憂鬱感も相まって。なんだ、ただの地獄か。

多分「また仕事」という感覚が嫌なのは、小学校も中学校も大嫌いだった時期があったからだと思う。小学校の時は同じクラスの男子にスカートめくりをされて毎朝泣きながらお腹痛いとすがりついてたから。中学校では前の席の女子に転校生であることから嫌味を言われいびられていたから。確かに当時の私は弱かった、弱かったから何がなんでも行きたくなかった。けれど意を決して行ってみて、一日が終わると脱力感で何も手につかなくなるくらい疲れていた。

気にしい、だとは自分でも思う。良くいえば人に気遣いができる人。悪くいえば心配症。だから今でも仕事に行く度少しピリッとする。不安がれば不安がるほど職場に着くまでの時間は早いもので、そんなこんなで日々に追い打ちを立てられながら過ごしている。

 

自分のことは大切にできないけど他人からは大切にされたい。なんてあほか。

今日は帰り道に死んだミミズを4匹見た。