うちは学歴家族だ。

父は中大法学部首席で国家公務員になり、定年退職をしてからは弁護士の仕事をしている。

長男は日大法学部を出て中野区役所の職員。

その下の兄は京大法学部で裁判官を目指しているらしい。

母親は今は専業主婦だが、私が幼稚園ぐらいの頃まではバリバリの英語を話す丸の内勤務の銀行員だった。

だから我が家の教育は生まれた時から厳しかった。というか、今だから厳しかった、と言えるけど、当時はそれが普通だと思っていたから、ただ反抗しないように、怒られないように静かに親の言うことを聞き入れて暮らしていた。

旅行をする回数が少ないのは、父親の仕事が忙しいからだったし、欲しいものを買ってくれないのは、父親が不要だと判断したからだし、ブランドの服ばかり与えられていたのは、貧乏そうな娘だと思われたくないという親の方針だし、小学生から塾やピアノ、スイミングスクールに通うのは文武両道のできる人間に育つよう躾られていたからだ。

家では敬語で話さないといけなかったから、小学生の頃、友達が親とタメ口で話していたり、ふざけあったりしていたのを見て、カルチャーショックを受けたのをよく覚えている。

基本的に家に友達を呼ぶことができなかった。兄たちの勉強の妨げになるからだ。ゲームも、テレビも、私が一番制限されていて、思えば小学生の頃から家での居場所にいつも困っていたなあ、と身をもって実感している。

頭の悪い友達と付き合うのよしなさい、が父親の口癖だった。私には平気でバカ、と言い、毎日の課題として兄のおさがりの漢字ドリルをやらせ、週末に私を呼び出して進捗を確認する。サボってしまって日付を全部消したときがあって、その時は酷く叱られた。マンガの付録でついてきた、可愛い柄物の鉛筆はいつもすぐ折られてしまっていた。

13歳で初めて挫折を経験した私に、両親はとても冷たかった。以来、私を見る目が変わった。それは今も続いているもので、会話こそもうしていないが、腫れ物を触るようだったり、こんな娘になったことを悲しむようだったり。もうきっと私なんてどうでもいいんだろうな。口では「そうじゃない、ずっと愛している」と言うが、親としてのプライドが言わせているとしか思えない。ここまで思えなくなってしまった自分のことだって悲しい。

早く私のことなんて忘れてほしい。私をこの家庭から消してほしい。親のためにそうしてほしいのではなくて、私のために私を消してほしい。そして早く、新しい人生へ解放されたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

家を出る日までのカウントダウンが始まった。そしたら、ふと、心が軽くなって、我慢する必要がないことに気がついて、夜中の三時過ぎから冷房をガンガンに入れて寝ていた。最低だ。

飲み残したチューハイの缶を今朝、いつもと同じ駅前のゴミ箱に投げ入れて、ごめんね、と呟いた。適当な私に買われて適当に飲まれてしまって適当なゴミ箱に棄てられるなんてかわいそう。私の方が余程ゴミなのに。

私に気づかれないように、昨日も今日も母親は私の部屋に勝手に入り込んで漁っていた。バレてるよ、と後ろからどついて脅かしてやろうかと思った。虚しい気持ちになった。きっと何年も前から日常的にやっているんだろう。貰い物のカートンの煙草ぐらいしかないのに。

目を半分閉じたまま歩く廊下は蒸し暑くて最悪だった。

両親は私のこと 好きなんだろうか

ちゃんと生身の私で 好きと言ってくれるんだろうか

きっと鼻から生身の私には興味がなかったように思える

自分たちのさせたいようにしたかっただけなんじゃないのか

私は生まれてきた玩具だ そしてかつ失敗作だ

ここまで考えたら苦しくなった

今日はもう寝ることにする

兎に角、私は目立ちたかった。目立ちたくてこのブログを立ち上げ、LINEのタイムラインにリンクを貼り、Twitterで宣伝して翌日再RTをするなどしている。私は目立ちたがり屋なのだ。

綺麗な服を着て、夏は薄手の、丈が短いワンピースで白い肌を出す。見せびらかすようにパンプスの音を鳴らし、澄ました顔で適当な街を練り歩く。

体型には一層気を遣う。普通 ではダメ、理想体型 も似合わない、所謂 モデル体重 がちょうどいいのだ。私は少し心配されるくらいの細さでいることが、一番の精神安定剤だと思っている。

私はよく兄弟と比べられていた。だからもっと良い評価をもらおうとして、学業には必至に打ち込んでいた。それでも年の離れた、成績優秀の兄二人には勝てなかった。「あなたはもっと頑張りなさい」「お兄ちゃんたちみたいになりなさい」家でのカーストは常に最下位だった。

 

勉強ではマウントのとれないことを知った私は見た目で勝負に出た。もちろん気持ち悪い、もっと食べなさいと言われた。でも元々ぽっちゃりの私には恍惚的な時間だった。こんなに人の目を浴びたことはこれまでなかった。私は自分が摂食障害であること自体はあまり悪くは思っていない。

 

認めてくれなくなった両親は次第に私と距離を置くようになって、同時に私の中で承認欲求が芽生えた。腹ペコの怪物のようだ。いくら可愛い、きれい、を投げかけられてもすぐに消化してしまう。好かれたいのではなく、認められたい。心底あるのはそれだけだから、私は一生恋愛には向いてないと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

学校に行けなくなってしまった中学二年生の夏、落ちこぼれのレッテルを貼り付けたのは紛れもなく両親だった。誰にいじめられるより、不気味な顔をされるより、陰口を叩かれるより痛かった。もう娘として、家族の一員として扱ってもらえないんじゃないか、って不安を常に抱えていた。家族との食事で会話に入れなくなって、寂しさを埋めるために自傷行為をしたら「異常だ」と病人扱いを受けて、親と隔離して暮らさなきゃいけない、と強制入院を強いられた。全部私が決めたんじゃない。全部大人が決めたのだ。

 

入院中はどうも悲しくて売店で鋏を買っては同じように腕を切りつけた。味気のない飯をそこそこに食べて、精神安定剤を飲んで寝る夜は寝苦しかった。首を絞められたり逃げ道のない部屋に閉じ込められる夢を見ながら一向に回復しない精神状態のまま学校復帰のために退院した。特に何も変わらなかった。私が幼いと言われる理由、私は未だにこの頃のままだからなのかもしれない。