点線

点は線にはならない。その逆も然り。

母親の腹から生まれた人間なのに、こんなに苦しい思いがあっていいんだろうか。相談は笑い話に変えてしまう。本当は日夜泣いているのに。

中学生以前までは末っ子長女として愛されていたと思う。厳しい父親には絶対公務員になることを強いられていたし、勉強面で理解できないことがあると鉛筆でデコピンをされた。マナーや親に対しての口の利き方が悪いとリビングから締め出された。けど、その生活は当時の私にとっては当たり前で、みんなもそうやって育てられてるもんだと思っていたから、心の強さを鍛えるための教育と思って受けていた。反面では父親は私に似合う服や高いフレンチのご飯をたらふく与えてくれた。家族旅行は人生で2回しか経験がなかったけれど、私が生まれたときは香川にいたけれど、小学校低学年までは毎週末のように出張へ行く背中ばかりを見ていたけれど、やっぱり父親にとっての埋め合わせが飯や服であって、それはそれで愛されていたんだと思う。

日曜日は教会学校へ行った。大好きなアニメは観られないことが多かった。リモコンの取り合いで喧嘩をした。土日の夜は祖父母が来て、一家団欒を楽しんだ。大人たちが大河ドラマに見入る隙に、風呂に入って見られなかったバラエティの続きを二階で一人観ていた。

中学生になって、引きこもりになった。母親は毎日泣いていて、気がついたらヒステリックになり会話をするたびに手が出るようになった。

大喧嘩をして手首を捻った。泣き叫ぶ母親に死ね、と吐き捨てた。でも、本当は私のせいで家庭が壊れていくなら死んだ方がいいんだろうと思って、夏の夜に裸足で砂利を踏みながら家の前の車道に出た。追いかけてきた父親に抱かれて未遂に終わった。私の意志はとても弱かった。

摂食障害になったら、私はもっと孤独になった。ちやほやされるのが嬉しくて外に出歩くのは好きだった。化粧っ気のない栄養失調でくまの浮き出た顔だけが憎かったけど、後ろ姿はフランス人形みたいに可憐だった。気持ち悪い、という言葉は嫉妬として喜んだ。これによって私は気違いになった。ストイックな性格が摂食障害で憧れのスタイルを与えてくれた。過食時のバイキング通いはその後半年くらいやめられなかったと思う。生理なんか来なくなった。両親はずっと泣いていた。

死に物狂いで一年間勉強して、底辺高校に入った。高一の時は週の半分はぼっち飯、ブスの私に友達なんかいなかった。

高二の春に出会った親友はその三年後に自殺した。私の憧れで、太陽みたいな人だった。いつも「あなたはかわいいねえ、頑張り屋だねえ」と励ましてくれた。高三の秋に喧嘩をして、卒業式の数週間前まで口を聞かなかった。でも、ある時急に何も無かったかのように話しかけてくれて、心晴れやかに卒業した。謝罪も何もせず死なせてしまった、守りきれなかった私の一生の後悔はそこにある。

専門学校一年生の頃は少し太っていて、両親とも仲が良かったと思う。もちろん我慢は多少していた。でも大人になるんだという強い気持ちで乗り越えた。はずだった。

二年生にあがり、平日学校土日バイトの生活で余裕がなくなった。あるとき上記の訃報を受けてげっそりと痩せた。飲まず食わずで泣いていたからだ。授業が何も頭に入らなくなっていたが、試験の時だけは本腰を入れ勉強し成績をあげていった。こんな時にも私のプライドは高いんだなと思った。

料理の道を選ぶために学校をやめる、と話したのはその直後だった気がする。その瞬間、家に居場所がなくなった。出てけ、と母親の怒号が響く家にはいられなくなり、何度も朝帰りをしてしまった。今思えばこの時点で家を出るべきだったと思う。ここなら、と決めた職場では除け者扱いをされ、辞めざるを得ない状況になった。

やりたいことをやる人生でしか私は生きられないのに、やりたくないことをやって真面目に生きることを強いる両親にはもう疲れてしまった。居場所なんてどこにもないから深夜のタクシー乗り場でビールを飲むような人間になってしまった。メンヘラとは言われるけれど私は至ってまともだと思う。太腿にできた痣は蹴られたときのもので、見る度に悲しくなってしまう。虐待親、までは言わない だってもう既に親だと思ってないから。近い将来で絶縁するんだろう。もう顔どころか同じ空気すらも吸いたくない空で。